今回は群生会(ぐんじょうかい)という、若僧侶会のテレホン法話の原稿です。
4月1日~15日までを担当しています。
※ テレホン法話 Tel:083-782-1142 で約3分間の法話が聴けます 是非!
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世界保健機関(WHO)は3月11日「新型コロナウイルス感染症はパンデミック(世界的流行)である」 と、発表しました。 現在も地球規模で多くの町が閉鎖され、多くの人々が苦しみ、ウイルスの感染拡大防止が叫ばれています。 予定されていたイベントの中止・延期も相次いでいます。 善照寺でも出来る限り開催を検討しましたが… 3月末に予定していた、春の永代経法要を中止する運びとなりました。 感染症を危惧して法座の中止したのは、善照寺の歴史の中でも初めての事かもしれません。 しかし、流行り病を恐れる事態は過去に幾度とあったはずです。 その時、先人たちはどのように受け止められてきたのでしょうか? 浄土真宗という宗門において振り返りますと… 本願寺第八代の蓮如上人は、お手紙「御文章」のなかで、 疫癘(えきれい)・伝染病についてのお考えを次のように述べられておられました。 「近ごろ、伝染病がはやって人が亡くなっていっている。だが、それは伝染病のせいで亡くなったのではない。死は生まれたことによって当然おこりうることだ。だからそんなにおどろくことはないのだ」 それに続けて、 「だがこんなときに亡くなれば、やはり伝染病のせいで亡くなったと皆思う。それももっともなことだ」 と、おっしゃられています。 この『御文章』に教えられることは、私たちが普段考えている「死因」はあくまで、死の縁であり、その縁、条件は無数で、本当の死の因は「生まれたこと」であるということです。 「死は生まれて生きるものの身の上に必ず起こってくることである」いつ死が訪れるかわからない身であることを、改めて知らされます。 だからこそ、この世に生を受けた意味を明らかにしようという意欲が呼び起こされるのでないでしょうか。 先人から、生と死は一枚の紙の裏表であると教えてもらい、お慈悲の光に照らされていることを知らされました。 大変な今であるからこそ、仏法聴聞を怠らず、お念仏の日々を歩ませていただきましょう。
称名
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