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四恩山 善照寺
当山の開基は了本、俗姓を多々良善次という。
京都西洞院法林寺四世、周勒(しゅうろく)の三男、内藤隆春の猶子(ゆうし)。
隆春の滅後、浪人となりう阿川に居住し、上野善左衛門隆勝と改め、後に真宗の法義を相続し、天正の石山合戦に参加。
本願寺籠城の危急に加勢し、本願寺八世蓮如上人の真筆、六字名号を賜ると伝えられる。
天正十七年(1589)三月十六日没。
二世潜竜は開基了本の嫡子(ちゃくし)であったが、相続が難しく潜竜の母方、勝安寺の伯父が後見役となり、
潜竜は無妻のため、弟了玄に寺を譲り、自らは肥州(熊本)の細川家に仕え、上野半太夫と名乗る。
三世顕寂は桂善左衛門元将の次男である。
四世了玄は第二世潜竜の弟、寛永十五年(1638)阿弥陀絵像・寺号を御免。
五世宗珍は阿弥陀の本尊木仏を安置し後、承応元年(1652)野地より、本堂を移転改築し御公儀の本陣を承ると伝えられる。
六世宗樹は西本願寺より親鸞聖人・七高僧・聖徳太子の尊影を下付される。
八世丹山
九世自然
十世一了
十一世徳厳
十二世謙譲
十三世建道
十四世黙存
十五世吐竜
十六世芳雄(専修寺入寺)
十七世慈海は吐竜の長男で日中戦争で戦死する。
十八世親雄は泰山丸慰霊碑を建立(昭和二十年太平洋戦争において遭難)
十九世康義(兵庫県正願寺より入寺)
二十世高昌 現住職 平成二十七年に住職を継職
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